#1' 火曜日は厳重注意

 


    十月になってようやく長袖を出す季節が来た。
    八月が終わったら秋、というイメージがあったが、結局今年も九月半ばまで暑い日が続いた。半ばが過ぎてさすがに涼しくなってきたな、と思えばゲリラ豪雨に見舞われる事が増えたりと、天候に弄ばれることが多くなった。いつ雨が降ってもいいように折りたたみ傘を持ち歩くようにしよう、と思えば持っていくのを忘れた日に限って帰りに雨が降り、仕方なくコンビニで買ったビニール傘が家に増えたり、朝から雨の日はお気に入りの傘で出掛けると、帰りに電車でぐっすり寝てしまい最寄り駅だ、と慌てて飛び降りたら手すりに引っ掛けたままの傘を忘れる。しかも駅員さんに捜索してもらっても見つからず、お気に入りの傘の喪失感とまた帰りにコンビニでビニール傘を買わなければならないといった深い悲しみに追われる事が、この半月ですでに二回ほど。しかもどちらも火曜日の出来事だ。雨の降る火曜日には厳重注意。気づけば自分の中でそんなスローガンが生まれていた。

「また今日も雨降るかなぁ」

    就職を機に東京に上京し早三年。上京したての頃は人の多さに驚き、毎日が新鮮で楽しい生活だったが、今となっては人混みを見るだけでうんざりするようになってしまった。休日の渋谷スクランブル交差点なんて地獄かと思う。そんな渋谷区の端にある笹塚駅。そこが私の勤め先である。
    駅周辺は何でも揃っていて、仕事終わりに何か買って帰ろうと思っても大体の物が手に入る。駅から会社までは徒歩十分程かかるが、綺麗で歩きやすい街なのでとても気に入っている。
    今日は火曜日。厳重注意の火曜日だ。二回も傘を無くしてから火曜日は嫌いになった。嫌いと思うようになると一日が長く感じられるようになり、尚更憂鬱になってしまった。

「今日も雨降るのかな……」

    降水確率は五十パーセント。一か八か、傘を持つか持つまいか。なんて考えているうちに家を出なければいけない時間になっており、慌てて家を出て自宅の最寄り駅まで走る。電車に無事乗れて安心したところで、折りたたみ傘を持てばよかったという正解を導いて後の祭り。今日はまた悪い日になりそうだなと予感した。
    悪い日になるだろうと思ったが、仕事は午前中から滞りなくむしろ巻きで進み、昼には青空が広がって屋上でランチもできた。悪い日になるなんて事は無かった、五分の確率に勝利したのだと思うと仕事に気合が入り、自ら残業を希望して明日の午前までの仕事にもきりをつけることができた。さあ、後は帰るだけだ、と会社を出て数分後。

「嘘、雨降ってきた。最悪」

    やはり火曜日は悪い方向へ帰結した。天気に弄ばれるとは、なんて日だ! と某芸人の持ちネタを頭に浮かべながら小走りで甲州街道沿いを走る。雨を受けながら走ってまもなく、コーヒーの匂いが鼻を掠めた。『Dear All』駅までの帰り道にあるカフェである。恐らくここから薫っているのだろう。独特な香ばしい匂いに私は引き寄せられる。気になるお店ではあったのだが、お洒落すぎていつも入れずにいた。しかしこれもいい機会なのかもしれない。雨宿りのために店に入ることを決めた。
    店内は和の空間デザインで木製のベンチが周りを囲み、ベンチの前にはいくつかのガラステーブルが置かれていた。若い男性が一人いるだけで、他には二人の男性店員がいるだけだった。

「すいません。ホットコーヒーを一つ」

    雨のせいで身体が冷えてしまったので、とりあえずすぐにホットコーヒーを注文した。こういったカフェならカフェラテよりもシンプルなコーヒーを注文したほうがどんな店なのか分かるのだとかなんだとか、コーヒー好きな友人が言っていた気がする。自分は舌が肥えているわけではないが、何となく「通」っぽく聞こえるように言ってしまい、後から少し恥ずかしくなった。
    客の男性はスマホを眺めている。よく見るとスーツや髪が濡れているようだ。私と同じように雨宿りをしにきたのかなと思いつつ、同じ境遇に見舞われているこの人がなんだか気になった。
    とりあえず濡れたジャケットや髪を拭こうとハンカチやティッシュを探したが、どうやらこの二つも忘れてきたようだ。忘れ物の多い自分を責めたい。女子力の無さに頭も抱える。仕方なく男性に声をかけようとする。その瞬間、突然心臓の鼓動が速くなったように感じる。普段なら声なんてかけようとも思わないのに、男性と同じ事象によって同じ場所にいる事が私の期待感をほんのちょっと仰いだせいなのだろうか。

「すいません、ティッシュ持ってませんか?」

    少し声が上ずる。小学校の頃、消しゴムを忘れた日に隣の好きな男の子に「消しゴム貸して」と聞く時のようなドキドキを、今また感じている。
    男性はまさか自分が話しかけられたとは思わなかったのか、ちょっと間があって、スマホから顔をあげてくれた。本当にたった少しの間であったのに、時が止まってしまったかのようにその間が長く感じられた。耳元に心臓をダイレクトに当てられているかのように鼓動が聞こえ、視界はピンボケした写真のように一瞬ぼやけた。男性が顔を上げてからは私の世界は元に戻り、彼はスムーズに鞄に手をやり、ティッシュを差し出してくれた。

「あ、はい。コレ」
「ありがとうございます」

    地元の大学を卒業してから彼氏はいない。そもそも男性経験だって多くない。ましてや社会人になってからは出会いもまるで無く、目の前の仕事にいっぱいいっぱいで、自ら行動をしようとは思うことすら無かった。

「雨、三十分後には止むそうですよ」

    男性が言う。話しかけられてびっくりもしたが、正直この後の天気についてほっとした。このまま降り続くようであれば家にまたビニール傘が増えるところだった。無意識に「よかった」と呟いた。
    それからはなんだかんだ閉店時間まで他愛のない会話をしながら過ごし、お店を出るとすっかり雨は止んでいた。

「よかった、雨止んでますね」

    男性の言った通りすっかり雨は止んでいた。安堵した反面、雨が止まなければこの男性との雨宿りが続くかもしれないのに、なんて柄にもなく思ったりもした。

「天気予報当たりましたね」

   一言告げると、男性は顔を赤らめた。確かに男性はあくまで情報としての天気予報を教えてくれただけで自分で予報したわけではないので、それで「当たりましたね」と言うのも、あちらとしては照れくさいのかもしれない。
    この時間に帰ることになるとは思ってもみなかったので、残業して明日の仕事の負担を軽くしてきて心底よかったなと思った。本当は途中から雨音は聞こえなくなっていたが、私も男性も席を立たなかった。理由は、分からない。

「僕、大体会社帰りにここいるので」

    雨の降る火曜日は厳重注意。悪い日になるとは、限らない。