時の流れの形の鍵 《1》

 

 

 

「アイスのカフェラテ、エムサイズ、一つ」

    男はレジカウンターに来るやいなや、メニュー表も見ずに小さな声で注文した。黒のキャスケットを深く被り、表情を見せないよう俯いている。男は『アンド・コーヒー』蛯名店の常連客だった。

    アンド・コーヒー蛯名店は都内から一時間程離れたベッドタウンにある、ショッピングモールの一階に入っているテナントの一つだ。アンド・コーヒー自体は、チェーン展開はしているがまだまだ拡大途中で全国十店舗程しかない。スターバックスドトールコーヒーには到底及ばない規模のコーヒーショップだが、店内は「インスタ映え」しそうな雑貨が多く並び、ダークブラウンを基調に洒落た雰囲気を醸し出している。何かと写真を撮りたがる女子高生や女子大生、OLをメインターゲットに最近人気上昇中であり、先日雑誌『Casa BRUTUS』で特集を組まれた。取材をされたのは東京本店であり蛯名店はそこまで反響が大きいという訳では無かったが、 雑誌で特集を組まれた店で働いている、ということで店員、石田亜衣は少し鼻が高い気持ちになった。

    またいつもの不思議な客だ。亜衣は思った。この常連客はいつも顔を伏せ、ぼそぼそと聞こえるか聞こえまいかのボリュームで注文をする。最初こそ何度か聞き返していたが来る度に「アイスのカフェラテ、エムサイズ、一つ」と同じ注文をするので、もはや聞き返す必要も無くなってしまった。この客に慣れてきた頃に「ご一緒にフードはいかがですが?」と勧めた事もあるが、声に出して断る以前に首ですら振らない。全くの無反応であり困る事になってしまってから、亜衣はこの客にフードを勧めるのは止める事にした。

「アイスのカフェラテ、エムサイズお願いします」

「はーい」

    アンド・コーヒーのロゴマークの入った透明なエムサイズのカップに「L」と書いて作り手の御堂美咲に渡す。Lとはラテ=LatteのLである。働き始めた当初は隠語を覚えるのも一苦労だった。

「石田さん、クロオ来ましたね」

「ね。やっぱりいつもの席に座ってる」

    亜衣が客とレジでのやり取りを終えたのを見ると、美咲は声をかける。クロオというのがこの常連客の愛称だった。黒いキャスケットをいつも被っている男だからクロオ。何ともストレートなネーミングセンスである。このクロオという存在と名前はアンド・コーヒー蛯名店ではよく知られた存在でクロオが来ると暫くはクロオの 年齢や仕事、趣味は何なのだろう、ああ見えて実は超絶イケメンなのでは?  などといった話でつい盛り上がってしまうのだった。

    クロオはいつもカフェスタッフに背を向けるようにして出入口付近のカウンター席に座る。そのため滞在中は顔は見えない。ましてやいつも、席に着くと帽子と同じく真っ黒なトートバッグから本を出して読み始めるのだ。常に俯きがちなので顔は拝めない。時折清掃のためカウンター席を拭きにクロオの近くまで行く事はあるが、ジロジロ見ることもできないので、結局失敗に終わる。

    顔を見る一番のチャンスは、商品を運ぶ時だった。アンド・コーヒーはレジで注文をした後、客は好きな席に座り、商品を待つ。その席まで店員が商品を届けるシステムなのである。店員としては商品を正しく届けなければならないので、渡す際にしっかりと客の顔を確認して「お待たせ致しました、アイスのカフェラテ、エムサイズです」と商品名を言う。多くの客はありがとうと感謝を述べてくれたり、頷いてくれたりするので無事届けられた事に安堵できるのだが、クロオの場合は本を閉じて顔を背けてしまうのである。「こちらでお間違いありませんか?」と聞けば「ええ」と言ってくれるので、コミュニケーションが全く取れない訳では無いのだが、尚更どんな人か気になってしまう。

「美咲ちゃんどう?  持っていく時に、今日は雨ですね、って声かけてみるの」

「ええ!  そんな事言っても絶対返事なんて返ってきませんよ。それなら石田さんが持って行ってください。クロオ、石田さんがレジしてる時に来る事が一番多いでしょ?」

「そうなの?」

「当社比です」

「なにそれ……」

    美咲はエスプレッソマシンから落ちきったエスプレッソを、氷とミルクの入ったカップに注ぐ。慣れた手つきで蓋をしてモスグリーンのストローを差すと、はい、と亜衣に渡す。美咲は悪意のある微笑みだ。まるでここから恋が始まるのではないかと期待しているようだが、亜衣としてはまっぴら御免である。それでもクロオの事が何となく気になってしまうのは事実だった。

    トレーにカフェラテを乗せてカウンターを出る。クロオはいつもの特等席で、本を読んでいる。亜衣はとある事を思いついた。

「お待たせ致しました、アイスのカフェモカ、エムサイズです」

    勿論、このトレーの上に乗っているのはクロオがいつも注文するカフェラテだ。「もし、間違った商品名を言ったらどうなるのだろう」店員として故意に誤った商品名を客に告げると言うのは全くもって認められる行為ではないとは理解していながらも、亜衣の中では瞬間的に興味の方が勝ってしまった。

「…………」

「カフェモカのエムサイズでお間違い無かったでしょうか」

「あ……モカ?」

    亜衣が来たのを察知して背けたクロオの顔が、少しこちら側に向く。手応えがある。内心ガッツポーズだ。クロオの顔を見るために仕事をしている訳では無いのだが、何だか燃えてくる。亜衣はこうなったら意地でも顔を見てやろう、という気持ちになった。

「はい、カフェモカです。……お客様の頼まれた商品カフェモカではございませんでしたか?」

「ら……」

「はい?」

「す、すみません……ラテです。僕が頼んだの……ラテです」

    手を口元に当てているためはっきりとは分からなかったが、初めて横顔を見た。切れ長の奥二重から伸びる長い睫毛が印象的だった。思わず「綺麗、羨ましい」と感じてしまった。亜衣が横顔を見るのに気を取られていると、クロオとふと目が合った。ドキリと心臓の音が聞こえた気がしたが、これはどちらの心臓の音だろうか。互いにすぐに目を逸らす。

「た、大変失礼致しました!  こちらはカフェラテでございます。私が間違えてカフェモカと言ってしまいました。申し訳ございません」

「いえ……」

    クロオの前にカフェラテを置いて、亜衣はそそくさとカウンターへ戻る。

「石田さん、クロオとちょっとお話してませんでした?  どうだったんですか?」

「注文間違えたフリしたら、ちょっとだけ顔見えたんだけど、なんかドキドキして。すぐ戻ってきちゃった」

「えー!  そんなにイケメンだったんですか?」

「いやイケメン……って感じではなかったけど、何だろう、不思議な感じがした」

「これは始まっちゃいますね」

「な、何が?」

「あ、石田さんお客様。お願いします!」

    時計を見たら正午をちょうど回った時間だった。このショッピングモールの周りにはいくつも大きな会社が建ち並んでいるので、ランチとしてアンド・コーヒーに来る者も多い。おやつ時になるとショッピングを一時休憩した主婦が訪れたり、オバ様たちが井戸端会議にテーブル席を囲んだりする。夕方になれば、コーヒーが飲みたいと言うよりかはお洒落な写真を撮りたいがために訪れる学校帰りの学生たちで店内が賑わいはじめる。この日は雨なのもあり雨宿りに時間を潰す客も多かったせいか、昼から忙しい時間帯が続いた。

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「ただいま戻りました。石田さんごめんなさい、休憩押しちゃって。ゆっくり休んできてください」

    美咲が休憩から戻ってくる。本来なら一時間前には行けていたはずだが、異常に込み合い抜ける事が出来なかった。途中で遅番の武田亮平と伊藤沙江が来たが、沙江がまだ新人なのでベテランスタッフのフォローが必要だったのである。亮平と亜衣はスタッフの中でも長く働いている方であるが、その二人がメインで回しても回りきらないほどの忙しさであった。

    亜衣は、やっと休憩に行ける、とバックヤードで一息をついた。そしてはっ、とクロオの事を思い出す。まだ、クロオはいるのだろうか。あまりの忙しさに途中からクロオの事なんて忘れてしまっていたのである。

   亜衣は制服の上からカーディガンを羽織り、バックヤードを出た。店内を見渡すと席は客でほとんど埋まっている。既に本日の授業を終えた大学生らしい二人組がちょうど飲み物を持ちながらツーショットを撮っている姿が見えた。こうやって彼女たちがSNSに写真を投稿し、お洒落なカフェだ、とクチコミが広まっていってくれるのは大変ありがたい。

   店内の混雑具合に比べて、新たな客の波は去ったようでレジに人はいない。亮平が沙江に教育している姿も見える。レジに立っている美咲が亜衣に気づき「いってらっしゃい」と声をかける。亮平と沙江もそれに続いて挨拶をしてくれたので、美咲も「いってきます」と応える。

    クロオの特等席には、少女が座っていた。カウンターの椅子は高く、床につかない足をバタバタさせながら、隣に座る母親にたっぷりホイップの乗ったワッフルを食べさせてもらっている。

「美味しい?」

「うん!  わっふう、すき!」

    微笑ましい親子を横目に、クロオの特等席を通り過ぎる。

    今日は水曜日か。気にした事は無かったが、彼はいつも同じ曜日に来るのだろうか。あの本は?  何を読んでいるのだろうか。職業は、年齢は……。気になってしまって仕方が無い。「これは始まっちゃいますね」亜衣は美咲の言葉を思い出す。100がゴールだとしたらまだまだ0.1歩しか進んでないけれど、何かが始まった。そんな気がした。

 

 

 

 

 

#1' 火曜日は厳重注意

 


    十月になってようやく長袖を出す季節が来た。
    八月が終わったら秋、というイメージがあったが、結局今年も九月半ばまで暑い日が続いた。半ばが過ぎてさすがに涼しくなってきたな、と思えばゲリラ豪雨に見舞われる事が増えたりと、天候に弄ばれることが多くなった。いつ雨が降ってもいいように折りたたみ傘を持ち歩くようにしよう、と思えば持っていくのを忘れた日に限って帰りに雨が降り、仕方なくコンビニで買ったビニール傘が家に増えたり、朝から雨の日はお気に入りの傘で出掛けると、帰りに電車でぐっすり寝てしまい最寄り駅だ、と慌てて飛び降りたら手すりに引っ掛けたままの傘を忘れる。しかも駅員さんに捜索してもらっても見つからず、お気に入りの傘の喪失感とまた帰りにコンビニでビニール傘を買わなければならないといった深い悲しみに追われる事が、この半月ですでに二回ほど。しかもどちらも火曜日の出来事だ。雨の降る火曜日には厳重注意。気づけば自分の中でそんなスローガンが生まれていた。

「また今日も雨降るかなぁ」

    就職を機に東京に上京し早三年。上京したての頃は人の多さに驚き、毎日が新鮮で楽しい生活だったが、今となっては人混みを見るだけでうんざりするようになってしまった。休日の渋谷スクランブル交差点なんて地獄かと思う。そんな渋谷区の端にある笹塚駅。そこが私の勤め先である。
    駅周辺は何でも揃っていて、仕事終わりに何か買って帰ろうと思っても大体の物が手に入る。駅から会社までは徒歩十分程かかるが、綺麗で歩きやすい街なのでとても気に入っている。
    今日は火曜日。厳重注意の火曜日だ。二回も傘を無くしてから火曜日は嫌いになった。嫌いと思うようになると一日が長く感じられるようになり、尚更憂鬱になってしまった。

「今日も雨降るのかな……」

    降水確率は五十パーセント。一か八か、傘を持つか持つまいか。なんて考えているうちに家を出なければいけない時間になっており、慌てて家を出て自宅の最寄り駅まで走る。電車に無事乗れて安心したところで、折りたたみ傘を持てばよかったという正解を導いて後の祭り。今日はまた悪い日になりそうだなと予感した。
    悪い日になるだろうと思ったが、仕事は午前中から滞りなくむしろ巻きで進み、昼には青空が広がって屋上でランチもできた。悪い日になるなんて事は無かった、五分の確率に勝利したのだと思うと仕事に気合が入り、自ら残業を希望して明日の午前までの仕事にもきりをつけることができた。さあ、後は帰るだけだ、と会社を出て数分後。

「嘘、雨降ってきた。最悪」

    やはり火曜日は悪い方向へ帰結した。天気に弄ばれるとは、なんて日だ! と某芸人の持ちネタを頭に浮かべながら小走りで甲州街道沿いを走る。雨を受けながら走ってまもなく、コーヒーの匂いが鼻を掠めた。『Dear All』駅までの帰り道にあるカフェである。恐らくここから薫っているのだろう。独特な香ばしい匂いに私は引き寄せられる。気になるお店ではあったのだが、お洒落すぎていつも入れずにいた。しかしこれもいい機会なのかもしれない。雨宿りのために店に入ることを決めた。
    店内は和の空間デザインで木製のベンチが周りを囲み、ベンチの前にはいくつかのガラステーブルが置かれていた。若い男性が一人いるだけで、他には二人の男性店員がいるだけだった。

「すいません。ホットコーヒーを一つ」

    雨のせいで身体が冷えてしまったので、とりあえずすぐにホットコーヒーを注文した。こういったカフェならカフェラテよりもシンプルなコーヒーを注文したほうがどんな店なのか分かるのだとかなんだとか、コーヒー好きな友人が言っていた気がする。自分は舌が肥えているわけではないが、何となく「通」っぽく聞こえるように言ってしまい、後から少し恥ずかしくなった。
    客の男性はスマホを眺めている。よく見るとスーツや髪が濡れているようだ。私と同じように雨宿りをしにきたのかなと思いつつ、同じ境遇に見舞われているこの人がなんだか気になった。
    とりあえず濡れたジャケットや髪を拭こうとハンカチやティッシュを探したが、どうやらこの二つも忘れてきたようだ。忘れ物の多い自分を責めたい。女子力の無さに頭も抱える。仕方なく男性に声をかけようとする。その瞬間、突然心臓の鼓動が速くなったように感じる。普段なら声なんてかけようとも思わないのに、男性と同じ事象によって同じ場所にいる事が私の期待感をほんのちょっと仰いだせいなのだろうか。

「すいません、ティッシュ持ってませんか?」

    少し声が上ずる。小学校の頃、消しゴムを忘れた日に隣の好きな男の子に「消しゴム貸して」と聞く時のようなドキドキを、今また感じている。
    男性はまさか自分が話しかけられたとは思わなかったのか、ちょっと間があって、スマホから顔をあげてくれた。本当にたった少しの間であったのに、時が止まってしまったかのようにその間が長く感じられた。耳元に心臓をダイレクトに当てられているかのように鼓動が聞こえ、視界はピンボケした写真のように一瞬ぼやけた。男性が顔を上げてからは私の世界は元に戻り、彼はスムーズに鞄に手をやり、ティッシュを差し出してくれた。

「あ、はい。コレ」
「ありがとうございます」

    地元の大学を卒業してから彼氏はいない。そもそも男性経験だって多くない。ましてや社会人になってからは出会いもまるで無く、目の前の仕事にいっぱいいっぱいで、自ら行動をしようとは思うことすら無かった。

「雨、三十分後には止むそうですよ」

    男性が言う。話しかけられてびっくりもしたが、正直この後の天気についてほっとした。このまま降り続くようであれば家にまたビニール傘が増えるところだった。無意識に「よかった」と呟いた。
    それからはなんだかんだ閉店時間まで他愛のない会話をしながら過ごし、お店を出るとすっかり雨は止んでいた。

「よかった、雨止んでますね」

    男性の言った通りすっかり雨は止んでいた。安堵した反面、雨が止まなければこの男性との雨宿りが続くかもしれないのに、なんて柄にもなく思ったりもした。

「天気予報当たりましたね」

   一言告げると、男性は顔を赤らめた。確かに男性はあくまで情報としての天気予報を教えてくれただけで自分で予報したわけではないので、それで「当たりましたね」と言うのも、あちらとしては照れくさいのかもしれない。
    この時間に帰ることになるとは思ってもみなかったので、残業して明日の仕事の負担を軽くしてきて心底よかったなと思った。本当は途中から雨音は聞こえなくなっていたが、私も男性も席を立たなかった。理由は、分からない。

「僕、大体会社帰りにここいるので」

    雨の降る火曜日は厳重注意。悪い日になるとは、限らない。